介護を学びだして半年、生きることや死ぬことについて今までよりも真剣に考えるようになりました。まずは介護の現状を知るべく、介護界での有名人三好春樹さんの著書をいくつか読むことに。この方は現場を何年かされたのち、現在は年間200回を超える講演や実技指導を行っているそうです。全体的に現場で実証して効果があったことを説いているので、とても説得力がありますね。世の中で「常識」とされていることって、以外に本質を知らないで行われていることが多く、その症状を悪化させる。例えば、痴呆症のケアや排泄のケアなどがまさにそう。全体的に「人間の生きる力」を最後まで使って周りはケアしようね、というメッセージを受け取ることができました。
- 近代の膨大な知識と技術の再構成が必要。医療や看護のような治療を体系化してきたものと、介護のように生活するためのものをきちんと融合して活用しようよ!
- 画一化された労働を、本来の自ら感じ判断していく人間的な労働に変えていくことが求められている。介護という仕事はそれを先取りしている。
- 発達と進歩に価値をおく「いきっぱなし」ではなく「帰り道」をつくることが求められている。用は老いを内包した思想と生き方が必要。
というのがポイント。特に3番目は考えさせられる。発達と進歩に価値をおく社会で生活してきた私たちの世代は、発達するだけで老いがない。進歩するだけで、その物質的な豊かさを人生の豊かさにつなぐ回路がない。人より早く発達、進歩してきて地位や名誉を手にいれた人ほど、自分の老いとの付き合い方が分からず、「いきっぱなし」で「帰り道」が見つからない。従って老いを受け入れることができないという人が増えているのだそうだ。
確かに、現代社会で働いていると、去年より今年、今年より来年、利益をあげつづけろというのが命題になって、個人の業績と連動している。会社はもちろん、発達しなければ存続が危うくなる。が、その責任を個人に押し付けて、その価値観がそのまま人生と連動してしまっているのは、やはりまずい。これは年をとって自分が発達できなくなったとき、どうしても受け入れがたい事実として対処できなくなる。老いだけでなく、身体的、精神的にダメージを食らったときもその現実を受け入れがたくなるのは、同じ原理なのかもしれない。
そんな人間が量産されて、老後を迎え、この人たちをケアする側はどのようにすべきなのか、三好さんが実際にみてきた例をあげて書いてあるところがとてもいいし、説得力がありますね。その筆者が指摘しているのは、やはり現場と制度の温度差。国が決める方針はことごとく現場とはズレていて、老人の為にならないばかりか、かえってダメにしているそうで、これじゃあ税金を投入してもあまり効果ないよね。。なんで分かったふりをした「専門家」と呼ばれる人に決めさせるんだろう。
例えば「介護予防」っていう考え方。要はこれは「筋トレ」を中心とした事業で、要介護にならないように老人に体を鍛えてもらうのだが、三好さんの経験だと10人中、1人くらいしか効果はない。というのも何ヶ月も筋トレを行う意思と根性がある人が1/10で、もしその人が筋力をつけても使うことがない。それに筋トレは目的がないから「つまらない」。老人も普通の人、というよりは先が見えてきているからこそ、体を一方的に鍛えろと言われるよりは、もっとゆっくり自分のペースでやりたいというのがホンネだと思う。まあ、老人の残存能力をうまく活用したケアでほんとは十分なのかもしれない。
あと、「認知症」に対する考え方はとっても目からうろこ。一般的には、「脳の萎縮や変性が原因」と定義されていて、医学分野での研究が盛んだが、これを「老化に伴う人間的変化」といっている。医学からアプローチするより、人間学だと。現場をみると、脳の萎縮がなくても「ぼけ」が出ることもあるし、萎縮していても「ぼけない」人もいる。この辺は理由が分からないそうだ。だけど、「老化→脳が萎縮→認知症」となるのではなく、「老化による耐えられないストレス→脳が萎縮→認知症」という何か原因があって認知症になるのでは?といっている。「耐えられないストレス」とは、老いそのもの、若さが失われて適応できない、受け入れられないというのは堪え難いストレスらしい。
こういう本は何かきっかけがないと読まないけど、ある程度の年齢から「老いをどのように設計するか」という意識を持つのは大事じゃないかなあと個人的には感じるのでした。確かに、老いは平等にやってくるし、いくら逆らっても無理なので、やっぱり「帰り道」についても考えてもいいのかなあ。
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